友人の影響で読み出したのですが、むちゃ面白いです。but、すぐに忘れるので自分用にめも。心臓にはあまりよくないですけど(「斬首」とか「晒首」とか出てきますので)。
ちょろちょろと書き足し行ってます(汗)。いやぁ、日本史に詳しい友人がうるさいもんで(と、人のせいにする。ちなみにその彼は河井継之助ファン。)
- 明治維新 - Wikipedia
- 尊皇攘夷 - Wikipedia
- 幕末の人物一覧 - Wikipedia
- 安政の大獄 - Wikipedia
- 桜田門外の変 - Wikipedia
- 奄美大島の歴史〜砂糖地獄‖奄美三昧
- 「ソテツ地獄」なんてのもあったそうな
- 薩摩時代 - 奄美諸島の歴史 - Wikipedia
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- アーネスト・サトウ - Wikipedia
- 池田屋事件 - Wikipedia
- 寺田屋事件 - Wikipedia
- 近江屋事件 - Wikipedia
- 天誅組 - Wikipedia
- 天狗党の乱 - Wikipedia
大前提として「天皇」という、絶対的な権威への対象を対象としてその対称(対照かな、日本語が難しい...汗。要するに今風に言えば「天皇は神なんだからその敵は問答無用に悪」みたいな思考停止系戦略かな?)となる「官軍」「賊軍」「偽官軍」「朝敵」などといった、二元化された旗印としての言葉が生まれるわけです。絶対的なものというのはわかりやすいですが、実は「相対化」されていないという罠もあるわけですね。二元論は考えなくていいから楽だしわかりやすいです。でも、世の中の事象、はたまた人間そのものについて、思考停止して二元化してしまうという行為は、人間としてどうなのかという自問自答を忘れさせてしまう麻薬でもあるんではないかなとか、ない頭を絞ってみたり(意味不明ですんません...)
私がそうなのですが(汗)、自分自身について「相対化」してみると・・・うわぁ〜ん活きててごめんなさいなだめ評価でへこみまくることありありです。まぁ、そういう時は関西のお笑いでも見てリラックスしましょう。藤原紀香的美女をgetできるかもしれません(陣内君*1おめでと!)。しょうもない話ですみません...なんかいつもこういう流れになるなぁorz
【追記】「錦の御旗」の効力と政治の複雑さ
「官軍」だからということで、藩や民衆が指示支持したかというとそうでもなかったように感じます。とりあえず様子見状態の藩/民衆が大勢を占めていたんじゃないかなと。
そんな中で、「白虎隊の集団自刃」が印象的な会津藩の最後まで抵抗した姿勢に共感を持つ人も多いようですね。その抵抗の結果、厳しい処遇を課した長州藩に対して疑問を持ったり、逆にそこまで抵抗する必要はあったのか考えさせられたり。
「勝者が語る歴史」のみでは「本当の歴史」はわからない。「歴史の真実」を知ろうとすればするほどわからなくなってしまう。考えることの苦痛を乗り越えた人にのみ「本当の歴史」がある。また、人それぞれの「歴史の真実」があるのだ。ってかんじかな。...(ちょっとテレ)
維新の大立役者だった西郷隆盛が最期に明治政府に反抗して西南戦争を起こします。盟友だったはずの大久保利通に抵抗するわけです。感情論のみでは到底語り切れない政治の複雑さに悲しい気持ちになりました。木戸孝允が息を引き取る間際に呟いた「西郷もたいがいにせんか」という一言や、大久保利通が暗殺される直前に西郷隆盛からの手紙を読んでいた(あっと、持っていただけでしたっけ?)こととか、胸にしみますなぁ...
官軍/新政府(尊王攘夷派)
薩長、幕府ともそれぞれイギリス、フランスの支援があったわけで「攘夷」はどこへ?って思いましたけど。「討幕派」と言うほうがいいのかな?目的であった筈の「勤皇」が手段へ変わってしまい、「攘夷」が無理だと知り「討幕」が目的となって行くわけなんですよね。
「勝てば官軍」ですよねぇ(何)。
- 朝廷
- 薩摩藩
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西郷さんは「情」ある政治家として人気あるみたいですけど、薩摩藩自体は「砂糖地獄」の件とか結構エグいことしてたなぁと。
テロで混乱させて相手を怒らすのは戦争では常套手段(パレスチナ紛争とか)なのかもしれませんが、やっぱ庶民を巻き込む(「庶民」の犠牲者を出すのが最も効果的ということですね)のは「キタネー」と思ってしまいます。
「征韓論」について、本当のところは武力征服が目的じゃなかったのではないでしょうか。富国強兵の目的は野蛮なヨーロッパ諸国のやり方に対抗する為のものでなかったのか。
- 長州藩
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最初から最後まで藩として「尊皇」を貫いてたのはこの藩だけな様な気がします。桂小五郎が有名(幾松との件とか、モテる人だったんだろうなと。個人的にも好きだったり。)ですけど、読み返してみると西郷/大久保と比べれば、あんまり大したことしてない気がするとか言ったら怒られるかな。
薩摩藩(というよりは西郷?)と比べ、敗軍に対する処遇がかなり厳しかったとのこと。
- 土佐藩
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藩士として活動してたわけではなかったようなので(土佐藩は佐幕派?)、龍馬については、志士というよりは商人政治家(?)と言っていいのかも。
- 佐賀藩
- 赤報隊 - Wikipedia
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う〜ん、こういう話を知ると、心情的に官軍には肩入れできないなぁ。
江戸市中で略奪や暴行をやったのは、相良総三のグループだったのかかなり疑問です...
だが、租税半減の旗印が、やがて彼らの命を断つ刃になろうとは知る由もなかった。
幕府(佐幕派)
人物(西郷、桂とか)を一切追わずに出来事だけ見ると、佐幕派の方が正しかったのではと思ったりもします(「勤皇」に関してはほぼ目指すところは同じだったはずなのに...)。でも。「武士」としては庶民の命(を巻き添えにする危険)より「命を掛けて戦う」のが道なんでしょうか。
イギリスは中立で戦乱に紛れての他国の介入を阻止するという心積もりだったようですが、「ほんまにほんまかなぁ」と疑ってみたり。フランスはもっとあやしいよねぇ。
慶喜はもっと評価してあげていいのでは。慶喜がその気なら海軍(軍艦)を持つ幕府側に勝機は大いにあったかもしれない。でも、そうなると江戸の混乱、庶民の犠牲(及び混乱に乗じた外国勢力の介入とか)は必至だったわけで...
- 江戸幕府
- 海軍 / 陸軍
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- 勝海舟 - Wikipedia - 軍艦奉行/陸軍総裁
- 榎本武揚 - Wikipedia - 箱館戦争司令官/海軍副総裁
- 会津藩
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斗南では「爪に火を灯す」ような生活を強いられたとのこと(猪苗代でなく斗南を選択したのは当の会津藩側だったようです)。でもその逆境の中から広沢安任は洋式牧場を経営し酪農の先駆者となったのですか。
- 松平容保 - Wikipedia - 会津藩主/京都守護職
- 白虎隊 - Wikipedia
- 越後長岡藩 - Wikipedia
- 新選組
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新選組と言えば「誠」なカッコイイサムライのイメージだったりしますが(ミーハーですみません)、今の時代に合わせて考えると「人間のするこっちゃねぇべ」なこともしてますね。でも、近藤勇は最後に晒首となるわけで因果応報ということになるのかな。
- 近藤勇 - Wikipedia - 局長/甲陽鎮撫隊
- 土方歳三 - Wikipedia - 箱館戦争陸軍奉行並
- 沖田総司 - Wikipedia
- 伊東甲子太郎 - Wikipedia
「武士道」を貫いた、「サムライ」の時代の終りに咲いた徒花、壮絶な火花だった。というかんじでしょうか。
年表
- 1853年7月8日(嘉永6年6月3日) 黒船来航
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「太平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜もねられず」
もしここで戦争をしていたら日本は欧米列強の植民地となってたりしたのかなぁ。
- 1854年3月31日(嘉永7年3月3日) 日米和親条約
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鎖国体制崩壊です。
- 1855年11月11日(安政2年10月2日) 安政の大地震
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体制崩壊の予兆だったのかもしれません。
- 1856年(安政3年11月) 天璋院(篤姫)徳川家定御台所に
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この人は大変な人生をおくりましたねぇ。故郷の薩摩藩と敵対するなんて思いもよらなかったはず。
- 1858年(安政6年) 将軍継嗣問題
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う〜ん、ここで慶喜が将軍になってたら歴史はどう変わったのかなと考えてしまいます。
- 1858年 徳川家茂(慶福)第14代将軍就任
- 1858年8月24日(安政5年7月16日) 島津斉彬 死去
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西郷隆盛ら維新の志士の育ての親ともいうべき薩摩藩主斉彬死去。薩摩藩は久光主導となり西郷隆盛らの処遇にも影響が...。
- 1858年(安政5年) 安政五カ国条約
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岩倉具視などを中心とした攘夷派に阻まれ勅許がないまま条約締結。これへの反発がその後の大獄、井伊直弼暗殺へと。
- 1858年7月29日(安政5年6月19日) 日米修好通商条約
- 1858年10月11日(安政5年9月5日) 安政の大獄
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大老井伊直弼ら、尊皇攘夷派・一橋派を弾圧。
- 1860年3月24日(安政7年3月3日) 桜田門外の変
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水戸藩の尊王攘夷派浪士ら、江戸城桜田門外での大老・井伊直弼を暗殺。
- 1862年3月12日(文久2年2月11日) 和宮親子内親王 降嫁
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岩倉具視らの画策による公武合体政策の一環として、孝明天皇の異母妹和宮親王、将軍徳川家茂の正室となる。
- 1862年5月29日(文久2年4月23日) 寺田屋騒動(薩摩藩尊皇派等の粛清)
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京都の旅館・寺田屋にて、島津久光の命を受けた薩摩藩士が同じ藩内の過激派有馬新七らを粛清。
島津久光は当時、公武合体路線だった。
- 1862年9月14日(文久2年8月21日) 生麦事件 Wikipedia
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薩摩藩士が大名行列を横切った(?)イギリス人を殺傷。薩英戦争への導火線。
- 1863年8月15日(文久3年7月2日) 薩英戦争 Wikipedia
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薩摩藩、イギリス軍を砲撃。この結果外国勢力の実力を知り、攘夷の実行が不可能だと知る。
- 1863年9月30日(文久3年8月18日) 八月十八日の政変 Wikipedia
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薩摩藩・会津藩などの公武合体派が長州藩など尊皇攘夷派を京都から追放。
この時期では薩摩藩と長州藩は「犬猿の仲」だったわけで。
- 1863年9月29日(文久3年8月17日) 天誅組の変(大和義挙)
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京都での政変を知らず、尊皇攘夷派の天誅組、大和で挙兵。
- 1863年(文久3年10月) 生野の変
早すぎました。タイミングも悪かった。
- 1863(文久三年)-1864年(元治元年) 下関戦争(馬関戦争)
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長州藩が米仏商船に対して砲撃。連合艦隊に惨敗。
高杉晋作の活躍(演説をぶって煙に巻いたとか)がなければ領地を取られていたかもしれないとう逸話があります。
- 1864年5月2日(元治元年3月27日) 水戸天狗党の乱
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内輪もめと言っていいのか、身内で殺し合いしちゃって、水戸藩では人材が消えてしまいます。
- 1864年7月8日(元治元年6月5日) 池田屋事件
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京都御所焼き討ち計画を察知した新撰組、長州藩の尊皇攘夷派を襲撃。
- 1864年8月20日(元治元年7月19日) 禁門の変(蛤御門の変)
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京都を追放された長州藩兵が京都蛤御門で会津・桑名・薩摩各藩兵と衝突。久坂玄瑞ら戦死。
禁門の変において長州藩兵が御所へ向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行う
- 1864年(元治元年) 第一次長州征討
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尾張藩主徳川慶勝が薩摩藩士西郷吉之助(西郷隆盛)を総督参謀として15万の兵を率い長州へ進軍。
- 1866年1月21日(慶応2年) 薩長同盟
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坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で、西郷隆盛・小松帯刀(薩摩藩家老)と長州藩の桂小五郎(木戸孝允)の会談。倒幕への軍事同盟成立。
- 1866年6月7日(慶応2年) 第二次長州征討
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将軍徳川家茂、長州征討を決定。薩摩藩出兵を拒否。高杉晋作・大村益次郎ら率いる長州勢に幕府軍敗北。慶応2年7月20日(1866年8月29日)家茂、大坂城にて死去。
- 1866年(慶応2年12月5日) 徳川慶喜(一橋慶喜)第15代征夷大将軍に就任
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倒幕の流れは出来上がっていたので、遅すぎた「切り札」だったのかも。
- 1866年3月8日(慶応2年1月23日) 寺田屋事件(坂本龍馬襲撃事件)
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伏見奉行配下の捕り方による襲撃。お龍の機転により辛くも回避。その後龍馬はお龍とともに鹿児島へ脱出。
- 1867年1月30日(慶応2年12月25日) 孝明天皇崩御
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公武合体を推進、会津藩松平容保などを信任していた孝明天皇が崩御。明治天皇、満14歳で践祚。
- 1867年11月9日(慶応3年10月14日) 大政奉還
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徳川慶喜、政権を朝廷に返上。討幕派に対し先手を打つ。
慶喜の狙いは西洋式議会を設立し、その議長に就くことだった?
- 1867年12月10日(慶応3年11月15日) 近江屋事件 Wikipedia
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坂本龍馬と中岡慎太郎、暗殺される。
- 1868年1月3日(慶応3年12月9日) 王政復古の大号令
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岩倉具視や大久保利通ら討幕派によるクーデター。徳川家を排除した新政府の成立を宣言。
- 1868年1月27日 1869年(慶応4年1月3日/明治元年 明治2年) 戊辰戦争
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幕府側は中立を許されず、官軍との戦闘か、幕府側への攻撃の先鋒となるかの選択を迫られます。
- 慶応4年4月(1868年) 江戸城無血開城
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幕臣山岡鉄舟・陸軍総裁の勝海舟、西郷隆盛と会談。江戸城総攻撃中止。無血開城が決定される。徳川慶喜は謹慎。
*1:マスコミも(というか一部の低俗なマスコミは)、陣内君に関しては、ミーハー的な「勝ち組」「負け組」思想的にあんまり語らないですね。素直に明るい話題として捉えてるのかな?...どうかな?